繰り返し猿真似る

本を読んでいて、「これは自分が書いたのか?」という傲慢な思いを抱くほどに「自分の言葉」と出遭うことがある。それは既視感なのだろう。自分がかつて語ったことがある/まさに語ろうとしていた言葉だと。だが事実としては、テクストに出会うまではその言葉を思いつかなかった、語ったことなど一度たりともなかったという意味で、それはまぎれもなく他者の言葉との出遭いなのだ。
そういう言葉と出会ってしまったとき、わたしはどうしてもその言葉を模倣し、その語彙を着て語りたい衝動に、強く駆られる。一刻も早く、その他なる言葉を自分の言葉として語りこなしたいからだ。だがその言葉たちは魅力的/他的であるので、どこまでもわたしの口を上滑りする。
そうやってべらべら喋り散らし言葉を吐き出すとき、聴き手は「こいつ何が言いたいんだ?」と、なかば異様な印象を持つだろう。あるいは「なんだ○○の追従者か」と。だが、わたしはまずはエピゴーネン化すること、猿真似しまくることから、その言葉を欲望し追跡し自分の口に上らせる訓練をするのだ。
ミュージシャンの友人が「パンクがなぜ少年たちに熱狂されたか分かるか?あの『おれにも演奏できるかも』って感じさ!」、そう言っていたのを思い出す。おれにも出来るかもしれない。やってみたい。やってみよう。とりあえず猿真似から。その猿真似が事後確認的に「オリジナル」なこともあるかもしれぬではないか。