わたしを見て下さい、に先立つ

主からの呼び掛けに対してアブラハムが「わたしはここにおります」と答える。「ヒンナニー(わたしを見て下さい)
」と。レヴィナスはこの応答が無限を証ししているのだという。レヴィナスは『存在するとは別の仕方で』の注のなかで、証しする(マルチュレオー)に言及していた。すなわち証言/殉教。
ひとりの人間が、他者に対して「わたしを見て下さい」と応答する。きわめて有限で特殊で一回限り。何ら普遍性もないし無限どころではない。しかしこの応答がその人の生涯の重みを担っているとき、それは無限を証しする。証しは法廷での証言であり、時代によっては証言は命を落とし得る危険を賭けて行われる。
だから「証言する(マルチュレオー)」は後代、次第に「殉教する」という意味を帯び始める。他者に対して自己の命の重みを賭けた応答をする。わたしは牧師をしていて、誰かの死に立ち会うとき、もっともこの出来事を示される。圧倒的に示される。
寒い部屋に、検死の後も生々しく、裸で放置された遺体。硬直し、衣類を着せるもままならない。しかしその人が生きたこと、「わたしはここにいます/わたしを見て下さい」というその残響、決定的に有限な冷たい肉をとおして、本人がもはやここにいないという不在のくぼみをとおして、無限が。
無限を、わたしは事後確認的に教理をもって整理する。教理は先駆者たちが無限とありありと遭遇した証しである。それはしばしば埃をかぶった様態を示している。だが丁寧に埃を払い、敬意をもってこれに接するとき、そこに師がおり、やはり無限が不在のかたちでありありと姿を顕すのだ。
わたしにとって悔い改めも、このような他者体験抜きには考えられない。メタノエオー。メタすなわち、何かまったく今とは別の場、方角、広がりへと、ノエオー、見える。見える向きが変えられる。それは自分が意志して見ようとしていた「前」ではないという意味で「後ろ」である。それはオラオー(見る)より受動的だ。
これがわたしの、イエス・キリストとの出会いである。日常生活で誰かとふれあい、自分の考えが覆されることをとおして、イエス・キリストにおける悔い改めへと導かれるという出来事である。オラオー(見る)ではなくノエオー(見える、感知「される」)としてのメタノエオー(悔い改める)。