無機と有機

安部公房『内なる辺境』を読む。ユダヤ人排斥について“その毒素は、ユダヤ人という外からの侵入者によって持ち込まれたものではなく、じつは本物の国民という「正統神話」自身の内部からにじみ出して来た、おのれの体内の毒だったのだから。”(88頁)。
自らの正統性を見失いそうになるにあたり、「異端者」をいわば発明し、対象化し、徹底的に燻り出すメカニズムを、安部はさしあたりユダヤ人問題をもって語っている。しかしこれは「ほんとうの日本」を目指そうとするときにわたしたちが行うであろう異端者探しのことを語っているのだ。わたしにはそう読めた。
深読みかもしれないが、阿部公房なりに「炎上」を避けたのではないか。読者よ悟れと。敢えて日本人には「遠い」ユダヤ人問題を用いて語ることで。
安部公房砂の女』を読了。砂丘の深い穴底の棲家で、幽閉された男が一緒に暮らす女の存在。男にとって徹底的に異質な。何もかも違う。ちょうど、倉橋由美子パルタイ』と真逆だ。あれは女の「わたし」から見てどこまでも異様で異質な男(たち)の物語だった。
さらに言うなら、『砂の女』の語り手の男は「彼」であり「男」の三人称であるが、『パルタイ』における語り手はどこまでも「わたし」の一人称であるところからして、両者を間テクスト的に読めば、よりジェンダーの異なりが際立つようにも思われる。
これといった考えもなく『パルタイ』と『砂の女』を結び付けたが、前者は昭和35年、後者は37年と、そんなに時代も違わないんだな。どちらからも感じる錆びた鉄粉みたいな匂いは、時代の匂いなんだろうか。もっとも、わたしは40歳なので、本当に嗅いだことはないんだけれども。