ふと、ポロックのアクションペインティングのことを宮川淳が「カルヴァンの予定説的敬虔さ」と表現していたのを思い出した。アクションペインティングは、ポロックの意図と、絵具の飛沫の偶然性との弁証法だ。それが摂理的調和によって作品となる。
神学を学ぶ或る青年の、諦めや苛立ちのなかでなおカルヴァン神学に堅く立とうとする姿勢に、ポロック的なそれを重ね見た。そんな彼のアグレッシヴさを前にして「ものわかりのいい老人」的な役回りしか演じられないわたし自身。
ポロックになろうとして、結局ポロックを観察する側にしかまわれなかったわたしの、カルヴァンポロック的なものへの欲望なのだろう。