服装

スプリングコートの着こなしが下手で、結局暑く感じてしまい、多少の厚着プラスふつうのジャケット、みたいな服装しかできない。
ところで、ラウンドカラーシャツがよれよれになったのだが、もう無理して買わなくてもいいかなと思い始めている。カトリック聖公会と異なり、けっきょく牧師の「好み(≒モード)」でしかないのだと思うと、ふっとむなしくもなったり。きちんとネクタイしていればそれでいいのではと。
都会なら祭具や祭服も、傷めば簡単に買いに行ける。しかしキリスト教書店を含め、そういったものへのアクセスが圧倒的に無い地域へと赴任するのに、肩肘張っても仕方ないかなとも思ってみたり。もっとも、インターネットである程度はカヴァーできるのだろうけれど。何よりこういった服装が職制ではなく牧師個人の好みでしかないというのが・・・。
最近はカトリックなどの視覚的なゆたかさを取り入れるプロテスタントの牧師も多いし、わたしもそれは素敵だとは思う。ただ、わたし自身の思いについて言えば、カトリックなり正教なりの視覚的なものは、深い伝統の厚みに根ざしており、簡単に「取り入れる」ことは出来ないとの実感が強い。
旧来のプロテスタントの礼拝が賛美歌付き講演会と言われても、牧師がサラリーマンみたいな服装だと揶揄されても、現段階でそれに落ち着いていることに何の理由もないわけではなかろう。何でも時代遅れと見なすことに、わたしは疲れを感じる。
ごく浅いレベルではあるが、ペリカンやトマス・ホプコの著作を通して正教を学んだ。また、ラツィンガーやスヒレベークスの言説を支えるカトリックの骨格に思いを馳せた。そして思うのは、彼らの慣習を模倣するのではなく、自己の所属するプロテスタントの在りようを徹底することが、結果的には彼らへの敬意を表す事になるのではないかと。
赤木善光が「牧師が聖餐式の前によく『どこの教会でも洗礼を受けられた方は聖餐へ』と言うが、本当なら異なる聖餐理解において信仰告白した者同士は、その教派同士が公式に相互陪餐を認めない限り、私的に認め合うのは無理がある」旨語っていたのを思い出す。極論でもあろう。しかし真実は含まれていると思う。そしてそれほどに徹底して「排他的に」教理を突き詰めて考える赤木先生自身は、実際にお会いすると、きわめておおらかな方である。仏教とキリスト教とを比較宗教学的な視座から一所懸命考えていたりもする人物なのだ。物事を狭く突き詰め、究める人が、むしろ寛容であることの実例だと思う。
もちろん、「教理が人を分断するのだ。『イエスは主である』だけでいいじゃないか」という立場の牧師もいる。そういう牧師にとっては、他教派のしきたりを取り入れることも、敷居は低いのである。これは立ち位置の違いだから、そういう立場からすれば、逆にわたしが偏狭なだけとも言えるのだろう。