欲望が単純を複雑にする

ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』(行方昭夫訳)読了。BBCシャーロック・ホームズ的映像を脳内再生しつつ読み進めた。幽霊の話というよりは、20歳の女性家庭教師の、教え子たちに対する、自分が優越したい、だが現実には劣っているのではないか?みたいな、強烈な自己愛と不安との葛藤と読んだ。
10年前に買って放置していた文庫をようやく読めて、新品のままだが頁が茶色くなっていることに、年月を感じた。たぶん当時は島薗進経由か何かでウィリアム・ジェームズ『宗教経験の諸相』を読もうと思い、兄弟であるヘンリー・ジェイムズにも興味を持ったのだと思う。
内田樹夏目漱石の『こころ』における「私」の「先生」への欲望を詳細に分析していたが、『ねじの回転』に登場する「わたし」もまた、マイルズ(とフローラ)の意味の空白を何としても埋めたい、だが埋めようとすればするほど意味の空虚が大きくなる、そういうかたちで他者への欲望を掻きたてられる。
自分の思い通りにしたいとまでは言わなくとも、少なくとも相手が何を考えているのか把握したい、だがその相手の志向のベクトルが分からない。ただ少なくとも、このわたし以外の何者かへとベクトルは向いている、それだけは確かだ(という不安/確信)。だから相手を解釈したい/相手のベクトルを自分へと向かせたい、と。
だが、そのようなやり方では決して欲望は満たされることなく、不安はますます増大するばかり。相手のベクトルはますます自分から逸れてゆくのだから。わたしには、この家庭教師の女性が見ていた男と女の幽霊は、彼女の教え子たちのベクトル、すなわち彼女以外を向いている(と彼女が思い込んでいる)ベクトルの宛先として、彼女自身が生み出した妄想だと思えた。