儒教的キリスト教徒

 加地伸行著、『沈黙の宗教─儒教』、筑摩書房、2011を読了。中国、朝鮮半島、日本に広がる儒教の死生観が、中国や朝鮮と日本との微妙な受容の相違も含めて、文庫サイズで見事に説明されていた。加地が儒教仏教徒としての自覚的な立場から、中立を気取らずに語る勢いが、読みやすい。
 読んでいて分かったのは、海外に行ったことも住んだこともなく、最近洗礼を受けた母以外は血縁の誰もクリスチャンではないわたしもまた、まぎれもない儒教キリスト教徒であるということだ。とくに死者に対して抱いている親近感は、キリスト教徒というより儒教徒だと言ってもいい。
 だからこそ、この著作から挑戦を受けた気もする。加地の主張をそのまま受け入れるならば、わたしにとっての神学とはすべてこれ欧米の受け売りであることになる。また、フェミニズムや人権に関する大きな部分も「日本人だから」ということに明け渡さねばならない。加地の説得力ある死生観および倫理観になお対抗しうる神学を語り人間観を語るには、わたしのなかでこれらの思考が受肉し、自分の生きざまと一体化していなければならない。
 “・・・靖国神社の行為は、シャマニズム以外のなにものでもなく、キリスト教の教義から言えば宗教の名に値しないものであり、教義的に言って、相手とする必要がないではないか。”(同書、288頁)、以前靖国天皇制問題に関する委員会に出席していたとき、奇しくも全く同じことを委員長が言っていた。宗教の名に値しないといえば棘があるが、要するに「宗教はみんなキリスト教のような感じだ」という素朴な地平に立とうとするから、靖国天皇制の問題に対しても感情的な攻撃をしかけることになるのだ、という意味では一考に値する。
 中国の儒教観では死者も人間として招魂(慰霊)するのに対して、日本の儒教観では死者の(あらゆる)悪は清められ神となるという相違。それが、靖国問題に対する日本人と中国人との激しい対立の根幹にあると著者は語る。ここでは、同じ儒教といっても風土的な相違が際立っている。
 素朴な儒教者としてのキリスト者であるわたし、という出自がテクストとして与えられたのは、出発点として有り難い気がする。あとは神学をおのれに受肉させるのか、受肉されるのか。海老名弾正を笑えなくなってしまったなあ。