わたしの文脈

 日曜美術館の録画を見た。法然親鸞にまつわる美術品(というか思想)を、五木寛之が分かりやすく丁寧に説明していた。以前読んだ『歎異抄』を思い出していた。ことに第九条を。
 弟子の唯円が、「念仏を唱えても心が躍りません、浄土に行きたいと思いません」と親鸞に正直に告白。すると、たしか80歳を過ぎていたはずの師が答える。「わたしも、そんな疑いがある。唯円も同じだったか」と。
 そして師が言うには、喜ばしいはずのことが喜べないからこそ、そんな罪深いわたしたちを仏は憐れんで下さるのだ、頼もしいことではないか、と。そして極楽への往生/救いは確定しているのだと。牧会で苦しみ、自分の信仰の頼りなさに揺らいだとき、この他力信仰の醍醐味に涙したのを覚えている。
 クリスチャンホームで育ったわけでもないわたしには、親鸞のこのような語りこそが、キリストの愛をわたしの文脈で語ってくれているように思えたのだ。これを「オリエンタリズムだ」と批判されれば、反論のすべもないが。