畏れ/だめなものはだめ、についての考察

連れ合いが辞書を買った。きれいだなと開いたら、“at loose ends《米》at a loose end《英》1.未解決で、未処理で2.何もすることがなくて、定職がなく、ぶらぶらして”。(旺文社)
“植物の生との交渉において、その発芽や成長や成熟の現象に驚嘆し感動した人間は、植物の生を模してみずからそれを演出しはじめる。(中略)そこで‘農耕’が作り出された。それと同じく、動物の本質が人間の心を捉え、人間をして動物の役目を演出せしめた結果が、ついに‘牧畜’となったのである。”(和辻哲郎倫理学(四)』72頁)。驚いたなあ。ルネ・ジラールが、『文化の起源:人類と十字架』のなかで、農耕はうろ覚えだが、たしか家畜については間違いなく、呪術ないし宗教をその起源に挙げていたと思う。ジラールよりもずいぶん昔に、そんなことを日本人が言っていたんだなあ。
ジラールは、たしか以下のようなことを主張していた。当面の飢えを癒すのに、技術の安定に何世代もかかるような、「経済的」リスクの大きすぎる牧畜をするわけがない。とにかく腹を満たしたいなら、必死で狩猟するだろう。つまり、呪術のいけにえにするための動物を育てるために(育てるプロセス自体宗教行為?)、後の牧畜にあたるものが始まった、と。ジラールの主張はだいたいそんな内容だったと思う。人間には宗教のような心の栄養「も」必要だ、というようなレベルの話ではなく、有史以前の人間にとって、信仰が生きる現実そのものであったという発想。和辻も同様の考えを持っていたのかもしれない。
そういう意味で、倫理を超越的ななにかを一切抜きにして、人間と人間との約束に収斂させるのは限界があるのかもしれない。永井均小泉義之が『なぜ人を殺してはいけないのか?』のなかで非─超越的な倫理を一所懸命語ろうとすればするほど難解になるのも、そういった消息を示しているのか。
国家の品格』の著者の藤原正彦が、だいぶ前にテレビで、「なぜ人を殺してはいけないか」に対しては「だめなものはだめなんだ」でいい、という趣旨を語っていた。つまり、すべての「なぜ」に対する説明が可能であるという前提自体が誤りであると。
それはひょっとすると、言語や論理の限界性の指摘であるだけでなく、倫理的領域への畏れというか、古代の呪術的、信仰的感覚の名残にあたるものが含まれているのではないか。「だめなものはだめ」は濫用すれば暴力でしかないが、そういう領域があり得るという呪術性は、少なくとも倫理にはあるのでは。
とはいえ、永井や小泉のような、たとえ難解であれ果敢な挑戦があればこそ、藤原のような主張も生きてくるのではあると思う・・・て、だからどっちやねんて。