器は欠けたときに

連れ合いが手元を滑らせてごはんを盛った茶碗を割ってしまった。床にこんもりとあったかいごはんと破片。なんとも痛ましい風景。わたしも時々割ってしまうのだが、ふしぎとお気に入りの食器ほどよく割る。
パウロが「土の器」と語るとき、この割れやすさ、割れた時に感じる、なんともいえない痛みをイメージしていたのかもしれない。なるほど割れた茶碗と似たような柄のものは、探せばあるのかもしれないが、使い込み釉薬の亀裂に入り込んだ染みとか、表面の微細な傷の歴史は、もう還ってこないわけだ。
ましてや人間という器は。たとえば「この茶碗」が茶碗一般ではないように、「この人」は人間とか人類ではない。なるほど顔や体つきがよく似た人は世界中探せばいるかもしれないが、その人は「この人」とはまた別の、やはりたった一人の「あの人」である。
茶碗は、割れるまでその存在感を隠し、自己を主張せず、黙って飯を載せ、食われるままになっている。割れたそのときになって初めて「ああ、大事にしてたのに!」とわたしは思う。ところで、ふだんは「大事に」という意識さえしていなかっただろう。わりと雑に扱ったりさえしていただろう。しかし愛用はしていたわけだ。その茶碗に盛らないと、なにか収まりが悪かったわけだ。
愛というのも、そういうものかもしれない。少なくとも愛は意識だけに収まりきるものではない。