維持することと新しい知らせと

ペリカンの説明によるモンタノス主義の説明を、マクグラスの『プロテスタント思想文化史』を思い起こしつつ、とても興味深く読んだ。ヨハネ福音書14:16以下にも「弁護者」として登場するパラクレートスの活動を、世の終わりの聖霊による預言活動として信じたモンタノス主義。聖霊に満たされて活発に預言し、間近の終末を確信しつつ、厳しい倫理的生活を守る。
そのいきいきとした教会生活にテルトゥリアヌスも惹かれたのだろう。しかしまた一方で、父がイエスとして受苦し、死に、復活し、イエス聖霊となって預言を託すという、ひとつの神が様々な様態をとっているというような理解もモンタノス派のなかには見られたようで、それに対してはテルトゥリアヌスは三つの位格の完全な独立、つまり三位一体の原型となる説を強調したようだ。また正統的教会は正統的教会で、そのような三位一体論をテルトゥリアヌス以上に整えるだけでなく、聖霊による預言活動をもはや過去のものとし、終末を遠い未来のものとした。使徒的正典、使徒信条、使徒的司教制の固定化によって、ヨハネの黙示録以降に現れたモンタノス的な活動は聖霊ではなく悪霊の仕業、つまり権威のないものとした。
しかしペリカンが例外として、その後の教会史における修道士や神秘主義者たちの預言者的活動の継続に聖霊の働きを見たように、マクグラスも20世紀に起こったペンテコスタリズムに、表向き続いた静止主義、つまり聖霊使徒言行録のペンテコステ以降は直接は降っていないとする正統的教会の教理を覆す動きを見る。
わたしが洗礼を受けた福音派の教会では、聖霊が降ったと証言する人、異言を語った、聞いたと証言する人もいた。あれは20世紀以降に起こったペンテコスタリズムの流れなのだろう。一方で日本基督教団の多くの教会は静止主義なのだと思われる。教憲教規を第一に考え、秩序を重んじ、法を破る牧師は免職をもって追放するというシステムは特に今始まったのではなくて、モンタノス主義に対する正統的教会の自己確認を源としているのだろう。聖霊による自由な預言活動を認めれば、誰もが自由に預言し、終末を語り、制度的教会はその意義を失うからだ。
使徒言行録のペンテコステをもって聖霊の直接の介入は終わったのか、それとも今なお聖霊の働きは起こり続け、それが既存の教会の在り方を変えるほどに起こり続けているのか。それは自分自身がどのような教派的神学に身を置くのか、どのような信仰的体験を持ち、あるいは他者と共有してきたのかによって、自分なりに確かめてゆくしかない。