羨望と敵視と自分の道と

まったく勝手な空想にすぎないが、モンタノス主義に正統的教会が抱いた危機感は、たんなる敵視だけだったとは思えない。聖霊のリアルタイムの活動をありありと信じる人々に対して、伝承を静かに守り続ける制度的教会は戸惑ったのかもしれない。現代メガチャーチ聖霊の活動を前面に押し出し、多くの信徒を集める。静止主義的な教会はこのようなメガチャーチを「カルト的ではないか」と批判しつつも、なぜ自分の教会には新しい人が来ないのだろうと問い続ける。
だがメガチャーチの空気は真似してできるものでもない。ふだん教派的に静止主義的な信仰生活を送っている牧師や教会が、伝道のために、手段として、突然聖霊を持ち出すのなら、それこそ偽預言に陥ってしまうだろう。だからわたしが伝道するときも、メガチャーチを羨んだり、模倣したりするのでは意味がないのだ。静止主義の空気のなかで、その静かな制度的教会、伝承を守る教会のなかで、しかもペンテコスタリズムとは異なった仕方で、聖霊のリアリズムを分かち合う方法を模索しなければならない。