伝承と出遭う

“例えば、中世の終わり頃と宗教改革の時代に、西方教会の神学論争の中で、聖書と伝承(伝統)の関係という問題が激しい争点となったのは、統一された体系の犠牲の上でのことであった。伝承は啓示の独自な源泉であるという理論の支持者たちは、伝承と使徒的継続性の明確化の中でその位置づけを定義するのに寄与してきた、根本的に釈義的な伝承の内容を過小評価した。聖書の唯一の権威を支持した者たちは、急進的な解釈学的前提から保守的な教義的結論に至るまで論じつつ、彼らが異端の解釈に対して聖書の正しい釈義と考えたものを確保するのに果たした伝承の機能を見逃した。”(J・ペリカン著、鈴木浩訳、『キリスト教の伝統 教理発展の歴史 第1巻 公同的伝統の出現(一〇〇─六〇〇年)』教文館、2006年、177頁。)
わたしは自分ひとりで聖書を読んでいるのではなくて、教会の(教会という)伝承のなかで聖書を読んでいるのだということ。そしてまた、伝承は聖書が編まれ、伝えられるなかで形作られてきたし、今も主を信じて聖書を読む人々のなかに生きて形成され続けているのだということ。
伝承は右翼のような巨木ではない。そのような巨木なら、巨木から外れたように見える人と伝承とは何の関係もなくなる。そうではなく、周辺化されていると見える人、周辺化されていると痛感している人との現実の出会いのなかで、わたしは、歴史上過ちを繰り返しながら挑戦を続けてきた教会の、その伝承の生きた証しを見るのだ。