傷を負う

映画『司祭』(1990年、アントニア・バード監督、ライナス・ローチ主演)を観た。同性愛に苦しむ若いグレッグ神父。父親による性的虐待に苦しむリサ。リサは神父に告解をするが、グレッグは司祭の規律のため、告解の内容を救済組織等に通報できない。彼は結局、リサと父親の関係が母親に露見するまで、何もなし得なかった。母親のグレッグへの怒り。彼の無力。牧会の挫折。さらに追い打ちをかけて、彼の同性愛が露見。もはや教会の内部で、彼の居場所が無くなる。しかしマシュー神父は、彼とともにミサを執行することにとことんこだわる。マシューはグレッグと衝突を繰り返しても、決して彼を追放しない。映画のラスト、聖体拝領の場面。同性愛神父に怒り失望し拝領を拒絶する信徒たちが、次々に会堂を去る。残った人々もマシュー神父から拝領し、グレッグ神父はいわば取り残される。そこにたった一人、拝領にやってくる。それはリサであった。ヨハネ8:7「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」という言葉が、深く深く響いてきて涙が出た。痛みを負った者が、痛みを負った者と聖餐を分かち合っていた。グレッグが聖体をリサに「渡す」のではない。むしろリサに、グレッグは赦しを乞い、主の御前に、主にあって赦されるのである。
保守的な信徒の言葉もしかし無視できなかった。「わたしの信仰を傷つけるのか!」だったか。同性愛を社会的に受け入れるのと、「信仰において赦す」のとのあいだに、どれほどの溝が横たわっているかが浮き彫りになる瞬間。ただ実際イギリスでは1967年まで同性愛が法的処罰の対象であったのだが。
同性愛の問題とフリー聖餐の問題は簡単には同一視できないが、フリー聖餐を拒絶する牧師や信徒は、神学的教理的な拒否だけではなく、この「わたしの信仰が傷つけられる」という激しい痛みに耐えられないからなのだ(誰がそれを「上から」批判できるのか)ということもまた、映画のなかで激しく伝わってくる。保守層が単純なワルモノに描かれていないのが、映画に深い奥行きを与えている。