たとえ傷の舐めあいに過ぎなくとも

連れ合いが、ちょっと辛いことがあって、心身ともに疲れている。しかし、わたしは彼女に向き合うことができずにいた。今日、礼拝堂で少しく祈った後、ほんのちょっとだけ、彼女に寄り添った。沈黙して横たわる彼女に、わたしは自分の抱える将来への不安や、ちょっと遅れてやってきた五月病のような状態を、静かに、ごく手短に、しかし洗いざらい話した。
彼女が顔をこちらにむけて、会釈してくれた。それで赦された気持ちになれた。もしも彼女が元気で、溌剌としており、企投的に物事を見据え行動するような「丈夫な女性」だったら、わたしは彼女の前に立ち尽くし、一言も自分の弱さを語り得なかっただろう。
彼女の弱さにおいてこそ、彼女の受け止める力、人を赦す力を見る。彼女の強さにではなく弱さにおいてこそ、わたしは自分の弱さを託すことができる。それはどちらか一方が一方的に相手を支え世話をするのとはまったく違う。
“この使い*1について、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。”(コリントの信徒への手紙二12:8-10)

*1:肉体のとげ。何らかの病気か苦しみを指すと思われる。