二度と来なくなるまえに

毎月、連れ合いと教育テレビの『ハートネットTV 貧困拡大社会』のシリーズを見ているが、彼女が古本屋でその解説者である湯浅誠の『反貧困 ──「すべり台社会」からの脱出』(岩波新書、2007)を見つけてきた。彼女よりも先に読んでしまった。
先にテレビを見ていたこともあって、内容が鮮明に理解できた。湯浅の批判の立ち位置は明確である。自己責任論に対する批判である。自己責任論によって「追い詰められた人がそのような現状に陥ったのはその人のせい」という無関心が生まれる。また、ことごとく社会保障や人々のつながりから断ち切られ、「あなたががんばりなさい」「あなたが悪い」と言われ続ける人は、当然「そうだ、わたしが悪いんだ。わたしはクズだ」と、自らの生きる力を喪失してしまう。自己責任などという単純化は人間には適用できないということを、湯浅は現場からの、しかも冷静で客観的な記述によって訴えている。また、そうした人々の切り捨ては日本社会全体の貧困、切り捨てる人、無関心な人自身の貧困を招来することも、情緒的にではなく論拠を丁寧にあげて語る。
「自分も頑張ってきたんだから、おまえも頑張れ」という、著作中に暴力の例として出てくる発想。これには敏感でありたい。偉人伝やサクセスストーリーに潜む危険である。復興や絆という言葉の持つ危うさでもあるし、もっと突き詰めれば、作者にもちろんそんな意図はないのだろうが、昭和20〜30年代の高度経済成長期を懐古的に描くさまざまなドラマの隠された側面でもあろう。作り手にはそんな意図はないかもしれない。ならばなおいっそう、視聴者はセンスが要求される。ムカシはみんながんばっていた、そして日本は経済大国になったじゃないか、だからイマもみんなで根性だそうや、みたいな短絡を避けるセンスが。
耳の痛い、二つの引用。“寝る場所がなく、教会に駆け込んだことがあった。牧師は「ここはみんなの場所だから、寝させてあげるわけにはいかない。その代り、祈ってあげるから」と言って、追い出した。”(同書、6頁)
わたしも前任地で来訪者に何ほどかのお金を渡して「帰ってもらった」。だがどこへ?むしろその人をその場に止め、一緒に市役所を訪れたほうがよかったと今では思う。第三者が同行することで、福祉関係の窓口は態度をがらりと変えるという、第三者の有効性を湯浅も力説している。
それともう一か所。“あるスタッフが「コーヒーポットとカップがあれば、居場所は作れる」と言っていたが、名言だと思った。文字通りの「茶飲み話」ができるところ。冷たい視線を浴びたり、迷惑がられたり、厄介者扱いされずに済む場所である。”(同書、137頁)
生活保護を受け、心に重荷を負った人と関わった。コーヒーを出したりしながら談話したこともあった。ちょうどバザーの準備の最中に、その人が来た。「コーヒー飲みにきました。」。わたしは即答で「今、バザーの準備で忙しいから、また!」。相手の目も見ずに、わたしは背を向けた。否、目を見るのが恐かった。二度とその人は来なくなった。