「少女」ではあり得ない、それでも

矢川澄子、『「父の娘」たち』、平凡社、2006を昨日読了。かつて宮川淳のテクストに出会って以来の、久しぶりの硬質で清潔感あふれる文体だった。また、矢川の、森茉莉野溝七生子についての記述のなかに、彼女の老いと死についての、受容と拒絶の微妙なゆらぎを読んだ。それは彼女が「少女」にこだわり続けたことにも無関係ではないだろう。矢川は、おそらく死をまったく恐れてはいなかった。“それは、なにかこう茉莉さん自身があまりにも急な死の訪れに驚いて、ぽかんと呆気にとられたままといったような”(38頁)。森茉莉の死を矢川は至福の生における死と受け止めているが、それはこのような、老いのプロセスを一気に飛び越える、少女から死への瞬時の移動というイメージにも表れている。森茉莉という当事者の身体には、実際には死へ向かうプロセスがあったはずだが。
それに対して、野溝七生子に対する矢川澄子の態度は複雑である。“破局は思いがけなくやってきました。”(233頁)で始まる、最晩年の野溝の、老い、苦境、それによる認知症の進行。野溝を見舞った矢川の、“わたしはいつか三島由紀夫の『天人五衰』を読み了えたあとの、苦い感慨を反芻していた。” (240頁)という一文。矢川澄子にとっては、死そのものよりも、このように、聡明で生き方そのものが美し「かった」少女が、老い、崩れ、衰えゆくそのプロセスこそが、受け入れるに苦しい、受け入れ難いことであった。それは多くの人がそう感じていることを、彼女が美しいテクストによって代弁してくれているとも言える。もちろん人によって温度差はあるだろう。死そのものだって恐いだろう。しかし死「後」そのものよりも、死へと至る衰え、苦しみ、そして他者へ曝すことになる醜態、これこそが恐ろしいことであり、自分の親しい人尊敬する人のそのような姿を見るにつけ、己の肉体の限界を予感することが不安なのだ。
高原英理という人が巻末の解説の中で矢川の少女を“身体のない精霊のようなもの”と要約しているが、このような身体理解と現実の身体とが、おそらくは他者の老いと死を看取るにつけ、あるいは自己自身の死へと向かう衰えを痛感するにつけ、軋轢を起こし、なにか赦しがたい感情を生じさせるのではないか。
わたしは幻想と現実とを単純な二元論に分解したくない。人間はそんなに単純なはずがない。幻想を抱かずに生きられる人間などいないはずだ。しかしまた一方で、幻想と現実とを和解させることの、なんと困難で厳しい道のりであることか。ダンディズムを貫き続け、破綻させずに生き抜くことの、なんと強靭さを要求されることか。それに耐えることができ、最後まで幻想に生き抜くことは、100歳以上健康で生きて老衰で死を迎える人が殆どいないのと同じくらいに、否もっとそれ以上に難しい道のりである。
嗤われてしまいそうだが、わたしは今もまたあらためて、高原英理言うところの「あからさま」と、矢川澄子の「少女」に象徴される幻想との交差点を探したいと再確認しているところだ。己が脆弱で醜い身体や生き方をしなければならないこと、また他者がそのようであることを受容し、自己の醜さや他者のそれとの和解をすること、そのうえでなおかつ、厚みある幻想、なお残されたロマンを探求するような道を探したいのである。