黙示思想を突き抜ける洗礼者

E・スヒレベーク『イエス(第一巻)』の第二部「イエス・キリストの福音」を読み始めている。洗礼者ヨハネについての分析が新鮮で面白かった。黙示思想でヨハネを括るのではなく、むしろ第二イザヤと結び付ける、ヨハネ活動当時からみても古い時代の預言者像の復古としてのヨハネ
しかも古いだけではなく新しい。悔い改めの単位が民族(部族)ではないこと。ヨハネ個人が個人へと洗礼を授けるという行為において、個人が悔い改めるという点、これがまったく新しいという。救われる部族─滅びる部族という単純な選民思想ではない。むしろ(アブラハムの子であるなどといった)救いの保証などない、何一つない。ただ悔い改めて、神の前に正しく生きろという、倫理的・個人決断的な新しい預言(ただしスヒレベークはおそらく意図的にエレミヤ31:30のような個人的悔い改めについては言及していない。‘ヨハネの時代の’黙示的思想潮流に対する「個人」の新しさを語りたいからだろうと思われる)。
エスヨハネから洗礼を受けたことについても、スヒレベークはそこにイエスの重要な転換点を推測している。本当は全知全能なイエスが、謙虚な「ふりをして」洗礼を受けたというような解釈を繰り返し排除しつつ。一つの可能性として、イスラエルの悔い改め、そして悔い改めによる救いを、行動で象徴するための受洗、という解釈を提示してもいる。