神は苦しまないか、という問い

ペリカンを読んでいるが、4〜5世紀頃のキリスト論論争は複雑で、理解するのがきわめて難しい。神学生の頃も理解できなかったし、今もなかなかついてゆけない。ぼんやりと、だが、アレクサンドリアのキュリロスとアレイオスとの論争に、とりあえず理解の軸を置いてイメージをつかもうとしている。
アレイオスに代表される神学は、イエスという神殿に、神のロゴスが宿っていることでキリストになるという。ただし単純にロゴスとイエスが分離できるのではなくて、それは統一的にそうであると。アレクサンドリアのキュリロスはこれに対して、受肉したロゴス、つまりイエス・キリストは人間かつロゴスであると。アレイオスにとってはマリアはロゴスの母ではないので「キリストの母(異端)」だが、キュリロスにとっては受肉したロゴスを生んだ「神の母(正統派)」である。
けれども「内在のロゴス」といったって、指先も頭のてっぺんも隅々までロゴスが内在して分離不可能なら、受肉したロゴスと変らないじゃないかとも思ったり。しかしアレイオスは内在を語ることでロゴスが十字架では苦しまなかったことを強調したいようだ。神の完全性が苦しんだりするはずがないと。それに対して、キュリロスはロゴスも肉体もひっくるめた、全体的なイエス・キリストが苦しんだのだと言いたいらしい。