批評の奥行き

録画しておいた「クローズアップ現代」の、吉田秀和の回を観た。音楽評論家だというが、名前さえ知らなかった。そして番組を見て、あらためて批評の創造的価値を見出す思いであった。
ホロヴィッツが78歳で来日して「名演」に誰もが感動していた際に、吉田は彼のミスタッチの多かった演奏を、たくさんひびの入った骨董に譬えて酷評したという。しかし番組中の解説によれば、吉田は小林秀雄白洲正子らと深い交流があり、骨董への鑑定眼は磨き抜かれたものであった。だからホロヴィッツをひび割れた骨董に譬える際に、彼をそもそも「骨董」と呼ぶことで深い敬意と共感を前提として表しているのであると。その上で今回の演奏についてはひび割れだらけではないかと。これこそ対話的深みのある批評ではないか。彼が「自分で考えること」を後進に強調した際に、ただたんにみんなが評価し楽しんでいるものをあまのじゃくにこきおろしたのではないということ、批判相手を蔑視しているのではなく、相手の尊厳を意識しつつ、かつ冷静に評価する姿勢が、よく分かる逸話だと思う。大変勉強になった。また、今回の番組をとおして、グレン・グールドを日本で広めたのも吉田であると知った。彼のCDは一枚も持っていないし、いつか欲しいな。
こういうことがあるから、宮川淳にせよ矢川澄子にせよ、わたしは批評的文学というか、評論というものが大好きなのである。自分の全然知らない世界を、「そこに飛び込んでみようかな」と思わせてくれる創造的価値がある。また逆に、自分がまったく興味のない分野を、まるで魔術のように面白がらせる側面もある(澁澤龍彦のコラージュ的批評テクスト、寺山修司の競馬やパチンコへの詩情的評論)。これからもいろいろな批評文を追いかけてみたい。