それを言ってはおしまいなのか?

ヒレベーク『イエス(第三巻)』の第四部を読んでいる。第四部になって、急に聖書学(聖書神学)から組織神学へと重点がシフトされた。正直、ちょっと興味が薄れてきている。人間の意味への究極の問い=神への問い、というゴリ押し感が強くなってきたからだ。まあそりゃ神学なんだから当たり前なんだろうけれど。
原書が出版された1970年代の西欧では、まだそう言い切る議論の前提もあったと思う。けれども日本で日常生活を送り、クリスチャンでない人々とふつうに接している(むしろクリスチャンでない人と接することのほうが圧倒的に多い)わたしの周りには、究極の意味=神の意味、でない人もごく当たり前にいるし、そもそも「究極の意味」という一点突破型、一極集中型に物事を問わない人だってとても多い。一極集中の問題設定や意味体系自体が、ある意味一神教を前提としているからだ。スヒレベークが問う以上に、読んでいるわたしの置かれた環境のほうが、徹底的に相対化された場であるという感じがする。第三部までは、その徹底した相対化に曝されつつ聖書を丁寧に読んでいくような、そういう共感があったのだが、第四部はどうも方針転換がなされた模様。
もちろんわたし自身は一人のキリスト者として、究極の意味=神の意味というような焦点で問題を追及しているし、そういう価値の軸に立って、これからも他者との対話をし続けると思う。ただ、それがわたしの周りの誰に対しても客観的・必然的に普遍的かと言われると、どうなのかなと。「福音が今、目の前の誰か一人に伝わるかも(すでに伝わっているかも)しれない」という、ごくごく小さな規模での共有は目指しているけれど。