それを言ってはおしまいなのか?続き

先日、『日曜美術館』で土偶の特集をしていた。数千年から、古いものでは一万年も昔の遺物なのであるから、それをもって単純に「日本人の心性」云々と現在化はできない部分もある。しかし少なくともそのフォルムの新鮮さや、そこに表された何らかの宗教性には、なるほどこの風土で生じた何か、現在も日本人の心性に沁み込んでいる、地(じ)を成している何かがあるなと思わされた。とにかく研ぎ澄まされたデザイン、それも何世代、何十世代、何千年というレベルでの研ぎ澄ましには、もう言葉を失ってしまう畏敬を感じた。
そして番組中ではそれを総括して「精霊」と語っていた。「聖霊」ではない。「聖」は、日常を絶した超越的存在、侵犯してはならぬ、我々と対峙し、分離された存在を暗示ないし明示する。しかし「精」は我々の髄を成すもの、我々の内部や一部、延長であるもの、畏れもあるが気安くもあるもの、我々を包み込むものである。包み込むので、その内部にあっては我々はそれに気付かないが、実は我々を満たしており、我々がその内部で当たり前のように生きて死んでいるような、そういうものである。我々はその内部で、それを「在る、いや無い」とギロンするが、そもそもそういう範疇でない、どこ吹く風である。
そういう感覚は、今の日本人にもあるような気がする。というより、今の日本人の感覚にある「精霊」を、縄文時代に逆照射しているのだろうけれど。けれどもその逆照射は、まったく的外れというわけではないと思う。そしてそういう心性は、一神教とはなかなか出遭うことはないだろうなあとも。
クリスチャンホームで育ったわけでもなく、留学もしたこともなく、西欧の空気を吸ったこともないわたしが、西欧の「翻訳」の神学書を読むときにいつも抱く距離感は、こういうところにもあるのだろうと思う。キリストに深く帰依しているつもりでいるが、どこかその帰依の仕方が精霊的であるという。