余白がいざないつづけるテクスト

“人は是等の二つの真理を、真理という名に於て同一の体系中に並在するものと解している。”日本民藝館監修、『柳宗悦コレクション1 ひと』、筑摩書房、2010、143頁。 
“そしてその神と世界との並置関係を、わたしは宗教思想として安易であると言ったのである。”小田垣雅也著、『現代のキリスト教』、講談社、1996、53頁。
柳宗悦宗教哲学の再建」を読む。たまたま小田垣雅也の『現代のキリスト教』を同時進行で読んでいるのだが、驚くほど論点が似ている。同じエマーソンを引用しているというだけでなく、その詩句の引用箇所まで一致しているではないか。柳がこの文章を書いた1922年にはポストモダンネオロマンティシズムなどという言葉はなかったと思うが、柳はそういう視座を持っている。
ロマン主義というと、すぐに理性に対する感情の強調であるとか、内向的な主観主義であるとか、もっと乱暴に「現実逃避」などと批判される。しかし柳にせよ小田垣にせよ、反理性としての感情主義的な態度を打ち出しているのではなくて、脱理性を語っている。彼らは思考するのに当然のこととして理性の働きを大切にする。しかし、彼らは同時に理性の限界をつねに意識しているのである。彼らはより根源的なものとして、理性の主観─客観構図では語り得ない体験を追求しているのだ。
もちろん彼らは、それを語った途端にそれが言葉として客観化され対象化されるという矛盾を知りぬいている。だから彼らは、語った言葉を絶対化しない。どこまでも自説を語りの不完全さとして留保し続け、その言葉に余白を持たせている。
だから彼らが「無」を語る時、それは有無という二項対立の無、客観的存在が無いという否定だけの無ではない。そもそも有無を成立させる場、そこからあらゆる事柄が生じるその根源を「無」という言葉で表現しているのだ。たしか関根正雄のハヤトロギーも、このような神学であったように記憶している。
ヤハウェの語源であるハーヤーは「在る」ではなく「成る」であり、だからギリシャ語のオンとは重なりつつもずれていると。在ることも、在ることが無くなってしまうことも、すべてがそこから生じる「無」の動態が、ハーヤーであると。ヤハウェはその動態を成す者であると。
小田垣が「主流の」神学者とならない理由もそこにあるだろう。たぶん即答で「それでは人格神ではない、キリスト教ではない」と反論されてしまうと思う。しかし、こういう柳や小田垣のありようをも包み込む信仰こそがキリスト教ではないかと、わたしは思っている。
なぜならわたしはこのような実感から、むしろ逆にイエス・キリストが神であり復活者でありながら、しかも生前はありありとただの人間であったこと、傷つきやすい人間であったことを、リアルに信じさせて頂いているからだ。