喜び/悲しみに満ちた世界・・・・「満ちた」とはなにが?どうやって?

野矢の議論が面白くなってきた。まず「心」があって、それが自分を取り巻く世界について「悲しい」と思うのではない。その人にとって、世界は悲しい相貌をもって現れたのであり、悲しさは世界の性質である。それが「心」の内面のありようとされるのは、他者の世界の相貌が私のそれとは異なるという、比較による浮き彫りによってである。
このように野矢の議論を追体験してみると、わたし自身の信仰体験とも重なるものがある。わたしがイエス・キリストの福音に喜んで教会を出ると、世界が清々しい。それはたんにわたしの「心」が清々しい「だけ」とするには広すぎるような勢いがある。しかしそれでもそれをわたしの「内面/心のみの出来事」とできるのは、他の人には同じその世界が陰鬱な世界である可能性があるから、これに尽きる。胸の中のどこかに思いが詰まった「心」があるということではなくて、心が変わるとは世界が変わるという事態の謂いである。心は他者との比較、というか遭遇においてこそ、「これは(あなたのそれとは異なる)わたしの内面、心の出来事」と記述できる。
乱暴な言い方が許されるなら、わたしもあなたも教会の礼拝をとおして、同様に世界が清々しい相貌を帯びていると見るなら、それはもはやわたしの「心」、あなたの「心」というモナドのような粒の中身の変化が偶然一致したのではなく、世界がそのような相貌としてわたしたちに立ち現われた、すなわち心といった粒ではなく現実の世界そのものが神の福音によって、その相貌を変えられたということなのだ。