思想の受肉

内田樹の『レヴィナスと愛の現象学』を読みつつ、昔古書店で買って放置していたレヴィナスの『タルムード新五講話』と格闘中。
神学生の頃、キルケゴールを勉強していたときに、友人が「彼の著作は哲学というより文学だ」と言うので腹を立てた事があったが、今にして思えば、文学≒芸術全般の象徴、として受け取るならば、彼の指摘は正しかった。
レヴィナスが暗闇の黒々とした漆黒のかたまり、その迫りくる無の存在感を語るとき、わたしは哲学的概念把握などできず、むしろ白髪一雄の荒々しい絵の具の厚みをイメージするばかりだった。キルケゴールにしても、わたしのキルケゴール理解はそういう感覚的、身体的なものだ。
だから、哲学が芸術だと言うのは、表現が哲学的厳密さを欠いて詩的曖昧さに頼っているという軽蔑なのではなく、むしろ哲学へのアクセスとしてそれなりに正当な評価なのだろう。
内田樹レヴィナスの翻訳作業をとおして彼の思想をおのれに受肉させたエピソードを繰り返し聞くにつけ、大学院でなんであれだけ原書講読をやらされたのか、また、ギリシャ語やヘブライ語からの聖書釈義を重んじるのか、今さらながら理解できる気がする。