激論をめぐって

(キリスト新聞社の松谷さんの或る発言と、それにまつわるクリメント神父さまの批判、反論をツイッター上で拝読して)
以前赤木善光の『宗教改革者の聖餐論』という本を夢中で読んだことがある。何が面白かったのかと言うと、ルター、ツヴィングリ、カルヴァンそれぞれによって、「パン」「杯」「からだ」「昇天」といった「同じ言葉」が、まったく異なる意味および文脈で使用されていたということが、丁寧に考証されていたことである。
ツヴィングリは洗礼をいわば入団式と解した。また、教会=共同体とイメージした。usus(赤木の訳では「行動」)を重んじた。そういう文脈でサクラメント論を語るとき、彼の流れを汲む者たちがルター派の者たちと議論して、かみあうはずがなかった。マールブルクでの1529年の会談でも、ルターとツヴィングリは、いろいろなことに同意できたのに、聖餐理解については真っ二つだった。
カルヴァンはキリストのからだの昇天にこだわった。幽霊ならともかく、たしかにまちがいなく「人間の」キリストが天に昇ったのだから、キリストは今ここにはおられない。彼はそこにこそ復活のリアリティを見た。しかしルターは、キリストは天に昇られたが、しかしそれにもかかわらず同時に、パン、まさにこの賤しいただのパンこそ、今(賤しい我々のために)ここにおられるキリストだと理解した。そしてルター・カルヴァン両者とも同様の聖餐式においてパンを用いた。
両者の流れを汲む者たちが同じ「パン」ないしキリストの「からだ」という語で、相手の文脈や用語法を吟味せず(というより当時はそんな視座自体がない)話し合ったとしても、同意や譲歩ができるはずもなかった。
今回、松谷さんがなぜ「洗礼を受けただけでクリスチャンと言えるのか」と問い、また、なぜ、正教のクリメント神父さまが、これは譲歩は絶対不可能と受け止めたのか。わたしの理解としては、お互いの「洗礼」という語の文脈や力点の異なり、これがそれぞれの発言における、いわゆる「見解」や「内容」以上に大きく作用したと思う。クリスチャンと無宗教の人、あるいはクリスチャンと仏教徒の対話なら、むしろうまくいっただろう。教派的伝統の異なるクリスチャン同士だからこそ、同じ用語をめぐってここまでの激論を生んでしまったのだ。
もちろん、これはわたしの個人的解釈だ。お二人それぞれの見解や内容そのものに対する理解を無視するのかと批判されれば「すみません、わたしにはそうとしか思えないのです」と弁解するのみの未熟な者である。わたしはクリメント神父さまの、徹底的に正教の伝統を重んじる姿勢に深く敬意を抱く者である。そして松谷さんの突き詰めて問題を考える、ときに不器用な生きざまにも親しみを感じる者である。