補足

以下『正教要理』より“しかし、正教会は「身代わり」の概念を用いることには慎重です。ハリストスの救いに人類の身代わりという要素があることは受け入れますが、あまり強調されません。特に「(ハリストスに人間の罪を)背負わせる」という表現には居心地の悪さを感じます。「(ハリストスの死による神の)なだめ」という言葉も正教は避ける傾向があります。”(欄外注のカリストス・ウェア「私たちはどのように救われるのか」松島雄一訳からの引用より)
『ふしぎなキリスト教』では、たしか目には目を、歯には歯を、の中東的な原則で、人間のペナルティに怒る神への賠償としてイエスが死んだ、みたいなことが書いてあった。そういうふうに理解する教派もあるだろうけれど、「キリスト教ぜんぶ」がそうではないことが、よくわかる表現である。
『要理』によれば、4世紀にニュッサかナジアンゾスかは分からないが、グレゴリオスが説教のなかですでに「賠償するって誰に?悪魔に?まさか!じゃあ神に?それならなんでアブラハムがイサクを捧げるのを神は止めた?そんなこと神が喜ぶかよ!」みたいな意味のことを語っているようだ。また、イエスの十字架の死が「代償」である場合の「何に対して」というのは、むしろ「人間や世界の悲惨な現実全体に対して」というところに強調点があるという。わたしはプロテスタントだけれども、少なくとも今の心境としては、むしろ正教の贖い理解のほうに共感が湧く。