自分が考えることは、先に誰かが考えてくれている

トマス・ホプコ著、ダヴィド水口優明訳『正教入門シリーズ1 正教要理』(西日本主教教区)を読了。ペリカンの『キリスト教の伝統 2』のなかで複雑に論考されていた東方の教理の歴史を、分かりやすく復習、整理できた。
子なるキリスト、聖霊を被造物とみなすアリウス主義、人間であるキリストにロゴスが宿ったとするネストリオス主義、神が父子聖霊の三様態に化けただけとするサベリウス主義など、それぞれぜんぶ、要するにわたしが洗礼を受けてこのかた「イエスって要するにそういうもんじゃない?」的に空想してきたのと同じで可笑しい。誰でも考えそうな素朴な迷いを、それぞれの時代にそれぞれの神学者たちが真剣に討論したのだと。
聖霊の位置づけが、やはり悩ましい。正教では実にシンプルに、父なる神が唯一の源であり、子なるキリストは父から生まれ、聖霊も父から発出している。三位一体は神学であり、生まれ、発出するキリストと聖霊の具体的な働きは経綸であるという。
カトリックではアウグスティヌスの三一論のように、フィリオクエ、つまりキリストからもまた聖霊は発する。父と子との関係性を結び、父から子へ、子から父への、双方の愛の志向そのものに聖霊が譬えられるからだ。わたし自身としては、カトリックの、父子の関係性における愛の自由な交流に譬えられる聖霊論に共感が傾く。しかし経綸すなわちこの世界に神がどのように係わられたかを大切にし、そして神の創造された世界や人間を徹底的に肯定する正教のありようにも、深く耳傾けるべきものを感じるのである。
アンティオキアのイグナティオスがカトリックという言葉を教会と結び付けたということも学ぶ。カトリコス=カタ(〜をとおして)+オロス(全体、すべて)。ヘー・カトリケー・エクレシア(カトリック教会、公同の教会、すべてを包む教会)
それにしても神学部時代に受けた特別講義の、水垣渉先生の教理史をきちんと理解できなかったのが悔やまれる。東方の歴史も講義して下さったが、何を話しているのか難しくて殆ど理解できず。今ならもうちょっと楽しめただろうなあ。