流されず残るもの

小田垣雅也『それは極めて良かった』(LITHON)を読んでいる。やはりしっくりとくる。わたしに馴染む言葉たちが、ごくごく控えめに、語りかけてくる。二重性、中途半端、途上、などの語彙たち。
結論を出さない(出せない)居心地の悪さを、ゆたかさとして受け取り直すためには、それ相応の紆余曲折も必要なのだろう。即席に「人生とは答えの出ないものだ」という「答え」を用意しても、嘘くさくなるだけだ。答えが出ないことに苦しみつつ、しかも同時に答えのなさを悦ぶようなありよう。
きのう礼拝のあと、88歳の女性の方と、ずっとお喋りしていた。というより、彼女の話にひたすら耳を傾けていた。認知症があるため、同じ話がぐるぐるめぐる。ぐるぐるめぐるからこそ、彼女の記憶において何がいちばん大事だったのか、よく分かる。
彼女は周期的に繰り返した。「信仰は自分一人だけが救われるんじゃだめ。伝道しないと。わたしは牧師になりたかったけど、なれなかった。けれど、難しい話をするんじゃなくて、人にやさしくして、家に招いては集会をやった。そうやって信徒が増えた。」「受取った命は、いつかお返しするもの。そのあいだ、感謝していきる。それを伝えただけ。」「もうすぐこの命は終わるだろうけれど、ああ、いい人生だった、そう思って終わることができるよう、毎朝讃美歌を歌い、主の祈りをお祈りしているの。」。津田塾の寮で食後にテーブルを片づけて社交ダンスをした思い出や、学業のレベルが高くてついてゆくのに大変だったこと。世界を巡って、あらためて日本のよさを知ったこと。盲学校でも英語を教えたこと。「目の見えない人はね、愛が見えるの。」。
彼女が繰り返し語る言葉は、長い年月の流れのなかで、流されずに残った言葉だ。彼女の日々の祈りによって裏付けられた言葉だ。そうだ。自分も、こういう伝道がしたいんだ。わたしはそう思った。これがすなわちマルチュレオー(証しする/証言する/殉教する)であると。