出遭うことで、なにかが

信徒でない方からの「助けてほしい」との声。たしかに、教会側にもいろいろ事情はあるだろうし、声の「内容」そのものに応えられるとは限らない。けれどもこういう時勢だからこそ、声の主(ぬし)に顔を向けることがせめてできるような、宗教者でありたい。
「また生きていこう、って気になれました」。その言葉を聞いたら、わたしもまた生きていこう、って気になれました。礼拝だけが教会じゃない。こういうリレーもあってよい。
ラーゲルクヴィスト著、尾崎義訳『バラバ』(岩波文庫)を読んでいる。どうしても自分の代わりに十字架に架かったあの痩せた男から逃れられない、特赦された男の物語。人間と人間との、拙い、不器用な、しかし一つ一つ決定的な関わりから目が離せない。
「次会うときは笑って会いたいんで」。こちらこそ、次会うときは、しみったれた顔していないよう、がんばってみます。

それは記憶の遺産である。

水曜日にS先生の教会に行った際、夏の訪問時にもお話しする機会があった、80前後の男性と再び談笑した。彼の少年時代過ごした町が、わたしの故郷にきわめて近いということもあって。彼の過ごした小学校を、わたしは知っていたから。
小学生だった彼が校庭で友人と遊んでいた際、米軍機の機銃掃射に遭った。とっさに身を伏せた。起きあがると、一緒に遊んでいた友人が、上半身と下半身に引き千切れて息絶えていたが、涙も出なかったという。昨日遊んだ友が今日は死ぬ。それが日常であったから。思えばわたしの母もほとんど同じ体験をした。母の友人も即死したという。米軍機のコクピットから、パイロットの笑顔が見えたと母は言うが、この彼もまったく同じことを言った。また、校庭に爆弾が落ち、飛ばされた友人が壁に激突、壁にへばりついた彼の遺体をひきはがすと、周りはオイルで煤けて黒いのに、彼の形に白抜きされていたという。
彼の「白抜き」は、いくら拭いても取れず、それは悔しかったと。そういえば少年時代、わたしは父や母からよくこういう話を聞いて育った。
そういえば子どもの頃は、そこいらにいる大人たちから戦争の日常について聞かされたものだったが、いつの間にか、そういう話もテレビの向こうだけになった。

欲望が単純を複雑にする

ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』(行方昭夫訳)読了。BBCシャーロック・ホームズ的映像を脳内再生しつつ読み進めた。幽霊の話というよりは、20歳の女性家庭教師の、教え子たちに対する、自分が優越したい、だが現実には劣っているのではないか?みたいな、強烈な自己愛と不安との葛藤と読んだ。
10年前に買って放置していた文庫をようやく読めて、新品のままだが頁が茶色くなっていることに、年月を感じた。たぶん当時は島薗進経由か何かでウィリアム・ジェームズ『宗教経験の諸相』を読もうと思い、兄弟であるヘンリー・ジェイムズにも興味を持ったのだと思う。
内田樹夏目漱石の『こころ』における「私」の「先生」への欲望を詳細に分析していたが、『ねじの回転』に登場する「わたし」もまた、マイルズ(とフローラ)の意味の空白を何としても埋めたい、だが埋めようとすればするほど意味の空虚が大きくなる、そういうかたちで他者への欲望を掻きたてられる。
自分の思い通りにしたいとまでは言わなくとも、少なくとも相手が何を考えているのか把握したい、だがその相手の志向のベクトルが分からない。ただ少なくとも、このわたし以外の何者かへとベクトルは向いている、それだけは確かだ(という不安/確信)。だから相手を解釈したい/相手のベクトルを自分へと向かせたい、と。
だが、そのようなやり方では決して欲望は満たされることなく、不安はますます増大するばかり。相手のベクトルはますます自分から逸れてゆくのだから。わたしには、この家庭教師の女性が見ていた男と女の幽霊は、彼女の教え子たちのベクトル、すなわち彼女以外を向いている(と彼女が思い込んでいる)ベクトルの宛先として、彼女自身が生み出した妄想だと思えた。

服装

スプリングコートの着こなしが下手で、結局暑く感じてしまい、多少の厚着プラスふつうのジャケット、みたいな服装しかできない。
ところで、ラウンドカラーシャツがよれよれになったのだが、もう無理して買わなくてもいいかなと思い始めている。カトリック聖公会と異なり、けっきょく牧師の「好み(≒モード)」でしかないのだと思うと、ふっとむなしくもなったり。きちんとネクタイしていればそれでいいのではと。
都会なら祭具や祭服も、傷めば簡単に買いに行ける。しかしキリスト教書店を含め、そういったものへのアクセスが圧倒的に無い地域へと赴任するのに、肩肘張っても仕方ないかなとも思ってみたり。もっとも、インターネットである程度はカヴァーできるのだろうけれど。何よりこういった服装が職制ではなく牧師個人の好みでしかないというのが・・・。
最近はカトリックなどの視覚的なゆたかさを取り入れるプロテスタントの牧師も多いし、わたしもそれは素敵だとは思う。ただ、わたし自身の思いについて言えば、カトリックなり正教なりの視覚的なものは、深い伝統の厚みに根ざしており、簡単に「取り入れる」ことは出来ないとの実感が強い。
旧来のプロテスタントの礼拝が賛美歌付き講演会と言われても、牧師がサラリーマンみたいな服装だと揶揄されても、現段階でそれに落ち着いていることに何の理由もないわけではなかろう。何でも時代遅れと見なすことに、わたしは疲れを感じる。
ごく浅いレベルではあるが、ペリカンやトマス・ホプコの著作を通して正教を学んだ。また、ラツィンガーやスヒレベークスの言説を支えるカトリックの骨格に思いを馳せた。そして思うのは、彼らの慣習を模倣するのではなく、自己の所属するプロテスタントの在りようを徹底することが、結果的には彼らへの敬意を表す事になるのではないかと。
赤木善光が「牧師が聖餐式の前によく『どこの教会でも洗礼を受けられた方は聖餐へ』と言うが、本当なら異なる聖餐理解において信仰告白した者同士は、その教派同士が公式に相互陪餐を認めない限り、私的に認め合うのは無理がある」旨語っていたのを思い出す。極論でもあろう。しかし真実は含まれていると思う。そしてそれほどに徹底して「排他的に」教理を突き詰めて考える赤木先生自身は、実際にお会いすると、きわめておおらかな方である。仏教とキリスト教とを比較宗教学的な視座から一所懸命考えていたりもする人物なのだ。物事を狭く突き詰め、究める人が、むしろ寛容であることの実例だと思う。
もちろん、「教理が人を分断するのだ。『イエスは主である』だけでいいじゃないか」という立場の牧師もいる。そういう牧師にとっては、他教派のしきたりを取り入れることも、敷居は低いのである。これは立ち位置の違いだから、そういう立場からすれば、逆にわたしが偏狭なだけとも言えるのだろう。

つねに学びの途上

聖公会の司祭からアレクサンドル・シュメーマン『世のいのちのために 正教会サクラメントと信仰』とヴォルフハルト・パネンベルク『現代キリスト教霊性』を教わり、さっそく古本屋のネットで購入。引っ越しのバタバタのさなかではあるが、ちょびっとでも読めたら。シュメーマンはとくに楽しみ。彼の『ユーカリスト』も読みたい。毎度のことながら、彼の情報の量の多さと質の分厚さには感謝している。彼にスヒレベークスを教わっていなかったら・・・!
あんまり期待しすぎたらいかんけど、シュメーマンはスヒレベークス並みのインパクトを与えてくれそうな予感。
ところで、同僚から、時折ではあるが「●●も読んでないんですか?」と言われて赤面することがある。なるべく幅広く神学書を読むようにはしているけれど、プロテスタントの一つの教派だけでも気が遠くなるほどの書籍があり、すべてをカヴァーするのは無理がある。アウグスティヌス、ルター、カルヴァンにしても、代表的な著作くらいなら読んだことはあっても、恥ずかしながら未読の書も膨大である。だからわたしは同僚には「そんな本も読んでないの?」とは言いたくない。

こちらでは最後の散髪に行った。いつも担当してくれるお姉さんに引っ越す旨伝えると、彼女も、今春からこの店を出て新しい店を出すのですと、嬉しそうに語ってくれた。昨年結婚した相手も理容師で、ふたりで店を開くのだという。なるほど、たしかに出発の春らしい。新婚夫婦の新たな理髪店に、祝福あれ。
レコードを新しい段ボール箱に入れ直し始めた。いくつか封をしたものの、直前まで聴きたいものもたくさんあり、なかなか荷造りは終わらず。