隠し味

九州へ引っ越す前に挨拶しようと、東京に来てからとくに交流を増したS先生の教会へ。聖書研究祈祷会だったのだが、生憎先生は所用で不在。しかし信徒の方々はふだんどおり(前回訪問時とほぼ同人数)集まり、信徒の一人が聖書から発題し、終始和やかかつ知的な会だった。
先生がいようがいまいがふだん通りの集会を維持できること。これは教会の健全さの一つの指針であると思う。先生が不在だったことで、却って先生の牧会のゆたかさを垣間見ることができた。わたしの常々の課題である「牧師の人柄が良い人か嫌な人か、というような要素に依存しない牧会」の可能性を取材できた。

「刺し違える覚悟」と言った先生もいた。

エキュメニカルというのは、きっと一致を目指すのではなくて、あくまでお互いの差異を尊重しつつ、一致ではなくゆたかな交流ないし学び合いを模索することなのだろうなあと思ってみたり。一致という言葉は、人間の現実には美し過ぎて遠過ぎる。
レヴィナスの他者論を思う。レヴィナスが他者と言う時には、相手と自分と、両者を含みこむ共通の「全体性」というようなもの、そんなものは無いと言い切る。極論にさえ聞こえるが、相手は自分と何の前了解、共通理解の基盤も無いのだと。そういう相手と出会うことで、相手と自分という二人の主体が生じると。和辻哲郎が語る「間柄性」ののどかさは、そこには無い。とてもスリリングだと思う。エキュメニカルな「交流」というのも、つねにそれくらいの綱渡りなのではないか。

気付かれぬ苦しみに気付きたい

ヘンリー・ジェイムズ『デイジー・ミラー』(行方昭夫訳)を読む。彼女の無垢な奔放さが彼女を封建的な社交界で孤立させ死に至らしめる、性的ではないとはいえファム・ファタル的な要素も含んだ作品だ。とはいえ、むしろデイジー・ミラーは何らかの発達障害の苦しみを負っていたのではないかと。
現代で言う自閉症スペクトラムのさまざまな症例を、19世紀の作家が小説に描けば、innocent(無垢/無責任)でunsophisticated(未熟、品が無い/純真、純粋)と解釈したとしても不思議ではない。なにより彼女の唐突な言葉、相手とのかみあわなさが。
過去の時代において発達障害の当事者が、周囲にそうであると認識されず、本人もそうだと気づかず、相当な苦しみを負ったであろう消息を、おぼろげながら想像した。もちろん現代でも発達障害にどのように向き合うのか、課題は重い。

少女は表情を捨てる

“この世にいる限り、「赤ずきん」は狼たちに脅かされ続けることになる。窮地からいつも自力で脱出できるとは限らないし、助けてくれた狩人が次の瞬間に新たな狼にならないという保証もない。(略)『Dressed / Naked』における少女の無意識は、そのような抑圧に充ちたゲームへの参加を拒否して、狼も狩人も指一本触れることのできない世界へとその姿を消した。彼女は自分自身の完全な支配者となった。”(穂村弘『ぼくの宝物絵本』、白泉社、2010)
この一文だけでも、買った値打があった。といっても連れ合いが「きみがすきそう」と買ってきて呉れたのであるが。久世光彦が妄想する永遠の密室でまどろむ少女。森茉莉の甘い蜜の部屋・・・永遠の密室の系譜がここにも。矢川澄子宇野亜喜良による『おみまい』における「無表情な少女」への洞察も秀逸。
連れ合いは種村季弘穂村弘とを記憶違いしていたようなのだが、その偶然に感謝。

青春語

小田垣雅也『それは極めて良かった』(LITHON)読了。彼は二重性とか途上とか中途半端といった語彙を「青春語」と呼んでいる。老境を迎え、これらの言葉が、決して到達し得ぬものを求めた青春時代に通じると、あらためて分かったと。わたしは「青春語」を瞬時に脳内変換で「中二語」(厨語)と読んだ。
自らが完結していないこと。自我が自我であることは受け入れつつも、それは独立した自我ではなく、他者との「間柄」において相即的に生成していること。真理を目指し探究しつつも、自分が獲得する真理や自分自身もまた消滅するのであり、だからこそ美しいと知ること。これらが青春語で語られる。
未完であることに苦しみ振り回されつつも、どこかでそれを諦め愉しむような生き方ができるのなら、中二病も悪くはないではないかと思ってみたり。

宗教とディズニーランド

あらためて岡田斗司夫氏の、「なぜ宗教が必要なのか?ディズニーランドで十分じゃないか」という言説を思い出していた。
今はどうか知らないけど、英国などで「ジェダイ教」という宗教の教会が出来たとニュースになったことがあった。スターウォーズの徹底したファンが、作品中重要なキーワードである「フォース」を信仰するようになったものだという。ひょっとしたら同じような道筋でガンダムの「ニュータイプ」を生きる糧にしている人だっているかもしれない。
アニメやSFだけではない。熱烈なジョン・レノンのファンにとって、ジョンはほとんどキリストのようになっている。数年前に見た『チェ』という映画では、チェ・ゲバラはほぼキリストとして描かれていた。岡田氏がディズニーランドをもって挑戦した言説は「こうしたファン心理と宗教との違いを述べよ」という意味なのだろう。
もとはエンターテイメントであったものが、熱烈なファンがその物語を生きるようになって、そのキャラクターなり出来事なりを、生きる上での根源的なアイデンティティと見なすようになる過程。熱烈なコレクターの姿にも、そういう生きざまを見ることがある。それと宗教との違いを言ってみろと、岡田氏は言うのだろう。

奇跡は、起こり得ないから奇跡と呼ばれる

小学生の頃に親から貰った方位磁石が出てきた。懐かしく蓋を開き針を解放にすると、いつまでも針が落ち着かず、しまいには全く出鱈目な方向へ。心の地誌学。
神的な「しるし」なり奇跡なりは、驚きと「そんなことあるか」という否定とのすれすれのところで、わずかに驚きが勝ったときに成立する概念だろう。それは古代人にとってさえ、そうであっただろう。古代人は古代人なりに、ふだんは奇跡の介入の余地などない、それこそ「安定した」日常を送っていたはずだから。