2013-01-01から1ヶ月間の記事一覧

無者

ニー仏さん*1の、ニコ生放送の話が面白いので寝られん。やってみなきゃ分からんのがテーラワーダ仏教なのか。眼を瞑って「青などない!」と言っている人の眼を開かせ、青を見せるのが仏教なのだとも語っておられた。一方で、たしかにやってみなきゃ、なんだ…

言葉の受肉

小林秀雄が、本居宣長の“姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ”という表現を用いて、逆説的な論考をしている(「言葉」)。言語表現において通常言われる「表現を真似るだけなら容易だが、表現の奥にあるその真意を理解し同一化することは困難だ」という説への反逆…

思想の受肉

内田樹の『レヴィナスと愛の現象学』を読みつつ、昔古書店で買って放置していたレヴィナスの『タルムード新五講話』と格闘中。 神学生の頃、キルケゴールを勉強していたときに、友人が「彼の著作は哲学というより文学だ」と言うので腹を立てた事があったが、…

録画しておいた『カラマーゾフの兄弟』を観た。面白かったけど、大袈裟な演技はドストエフスキーのカーニヴァル的台詞回しを「忠実に」しようとした結果なのかな。ちょっと日本人ぽくない。それに現代日本で住込みの召し使いが居る大邸宅って。戦前の財閥と…

おととい、きのう、空港で

出張先で『八重の桜』を観る。 空港に来たが、雪で東京へ帰れないので、出張先に戻ることにする。こっちはこんなにあったかい陽気なのになあ。 今日は飛行機が飛びそう。結果的に出張先で、より親睦を深めた。まあどんくさいなりに自分にできることをやって…

暴力についての思い出

子ども時代に受けた教育の影響って大きいんだなと。わたしも中学時代に木刀で威嚇する学年主任を前にして、「なんて薄気味悪い猿なんだ・・・・・」と思ったことについて、いくら論理的に説明したり修正しようと思っても、もうどうしようもない。ほんの数学…

悪足掻き的に追記

寺山修司『不思議図書館』とか澁澤龍彦『夢の宇宙誌』を読んで愉しんだ身としては、『ふしぎなキリスト教』を読んで面白かったと漏らして、見識を疑われてしまうのは残念。 タイトルが「不思議な」キリスト教ではなくて「ふしぎな」となっていることにも、わ…

対談≒雑談

小林秀雄・岡潔『人間の建設』を読んだ。二人の対談のリズムを愉しむ。そう、内容ではなくリズム。日本には対談という文学ジャンルがあるように思う。吉行淳之介『対談 浮世草子』然り、埴谷雄高・北杜夫『さびしい文学者の時代』然り、金子光晴『下駄ばき対…

知らなかったという喜び

内田樹『街場の文体論』を読了。面白かった。誰に向かって、何を伝えたいのか、という語るにあたって当たり前のことを、気持ち良く再確認させて頂いた。自己拡張型の勉強では知識が増えても成長はなく、「教えて下さい、分からないんです」と他者へと開けた…

欲望者の欲望に欲望する

神学部の授業で思い出深いのは、歴史神学の最初のレポートを出した時の、先生の「わたしは君たちのちっぽけな体験談なんかに何の興味もない。扱ったテキストに何が書いてあったのかをまとめろと言っているんだ。60点以下は全員書き直し!」。もちろん書き直…

追記

そういえば、別の牧師たちの話だが、うっかりテレビの話題をしかけて、「わたしはテレビは見ませんから」ときっぱり言われてしまい、きまずかったことも何度かある。こういうときに感じた気まずさは、けっきょく、テレビ(などという俗悪なもの)を見ない牧…

神の開け

ネット上で、あるクリスチャンとテーラワーダ仏教の求道者(どちらも日本人)とが承認欲求について話していた。それで強く思い出した。ある尊敬する牧師が「牧師に‘成功’なんて視座はない。牧師が成功を求めるなど馬鹿げている」旨語ったことがあった。 この…

引き受けること

内田樹ばっかりだが、また引用。今度は彼が紹介(たぶん彼自身が翻訳)しているレヴィナスの『困難な自由』の一文。“罪なきものが苦しむ世界に私たちはいる。そのような世界でいちばん簡単な選択は無神論を選ぶことだ。無神論を選ぶ人はこんなふうに考えてい…

わたしに与えられた一デナリ

去年、郵便配達でからだをこわして、そろそろ1年か。仕事失くして、絵に描いたように、公園でぼーっと子どもらが遊ぶのを眺めるオッサンしてたなあ。ただ、何か無性に解放感に満たされていたのも事実。 明日の教会学校のお話のために、マタイ20:1-16を読む…

視覚にうったえる

F・G・イミンク著、加藤常昭訳『信仰論 実践神学再構築試論』、教文館、2012、やっと読了。神を主観に収めるのでもなく、かといって徹底的に彼岸の彼方の超越として崇拝するのでもなく、神という主体とわたし(あなた)という主体との関係性が大事ですよとい…

その後追記したこと

内田樹が言及していたのはアブラハムについてだが、アブラハムを含めた聖書というものを読む(現在の)人間に、こういうメタ・メッセージは生じるのだろうか。解釈を介さない、直ちに宛先たる読者に直撃するような体験は。 メタ・メッセージとは内田の説明に…

宛て先についての抜き書き

以下、内田樹『街場の文体論』より。“でも主の言葉は一意的に、直接的に、アブラハムに到来し、いかなる解釈も許さないメタ・メッセージでした。あdから、アブラハムはメッセージの意味を訊ねるということを思いつかなかった。メタ・メッセージはずばりと、…

権威という言葉から手垢を取り除きたい

出かけた先で、内田樹の『「おじさん」的思考』と小林秀雄の『考えるヒント』を買った。それで今、内田の『街場の文体論』と『「おじさん」』を同時進行で読んでいるところ。内田の、もうそれ以上は問えないものとしての権威をどこかで認める姿勢、というか…

新年のご挨拶がわり - 内田樹の研究室 よいなあ。今彼の「街場の文体論」を読んでいる。

あたらしい年をむかえる

連れ合いが寝室に這入ったあと、テゼー礼拝で年を越すべく下北沢の教会へ。 テゼー礼拝、ことにその沈黙において、静かに自分の一年を振り返り、今年へと備えることがゆるされた。また、礼拝後の愛餐会で、牧師先生のはからいで食前の祈りをさせていただきつ…